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猪熊弦一郎

上野駅

上野駅の大壁画、誰もが一度は眼にしたことがある猪熊弦一郎の作品

すでにお亡くなりになりましたが、猪熊弦一郎という建築家が遺した功績は、今もたくさんの場所で見ることができます。

上野駅に行くことがあれば中央コンコースや駅舎の三角部分などに大壁画を見ることができますし、帝国劇場に行く機会があるなら、美しいステンドグラスを見ることができます。
彼の作品は日本のそこかしこに、印象的な芸術品として今も多数残っています。

猪熊弦一郎氏は「絵を描くには勇気がいる」とよく話をされていたようです。
彼が遺してきた作品を見ても、確かに勇気がいると感じられる非常に大規模な作品、また日本を代表する場所における作品が多いのです。

現在は丸亀市に猪熊弦一郎現代美術館があり、彼の作品を身近に見ることができます。
彼の作品は常に情熱を感じるものであるし、人に何かを伝えるという力を持っていると感じる作品が多いのです。

あまり知られていないことですが、三越デパートのあの印象的な包装紙、実はこれ、華ひらくという猪熊弦一郎氏のデザインです。

上野駅のシンボルともいえる自由という作品

駅舎の屋根の下、ちょうど三角になっている部分に、猪熊弦一郎氏の自由という作品があります。
全体にくすんだ印象の色味を使っている壁画ですが、何とも味のある絵が題名通り、自由に描かれています。

馬に乗った人がいたり、犬が話をしているような絵があったり、魚を持っている人、傘をさしている人、話をしているような男女・・・実に印象的な絵です。

慶應義塾大学 大学ホールのデモクラシー

慶応義塾大学の大学ホールにも猪熊弦一郎氏の作品があります。
これはデモクラシーという作品ですが、この作品と名古屋丸栄ホテルホールの壁画、愛の誕生という作品で、第2回毎日美術賞を受賞されています。

学生が食事する山食と呼ばれる空間にあるのがこのデモクラシーという作品ですが、猪熊弦一郎氏らしいくすんだイメージの壁画です。
ここでも何かしている人、佇んでいる人、羽の生えた動物、塔などが印象的に書かれています。

猪熊弦一郎の経歴、建築家になった歴史

香川県高松市に生まれ少年時代はこの地で過ごします。
旧制丸亀中学、東京美術学校(現代の東京芸術大学)に進学し、藤島武二教室に学びます。
帝国美術院第7回美術展覧会で初入選を果たします。

1936年、志が同じということで伊勢正義、内田巌、小磯良平らと新制作派協会を結成し、発表の舞台とします。
1938年にフランス、アンリ・マティスに学び1948年には1987年まで小説新潮の表紙絵を手がけました。

三越の包装紙、華ひらくをデザインしたのは1950年、その翌年上の駅の大壁画、あの事由が制作されました。

1955年には再度パリで勉学するために日本を離れますが、途中立ち寄ったニューヨークにひかれてそのまま20年間、同地によって制作活動を継続します。
1973年、日本に一時帰国している時病に倒れ、その後ニューヨークのアトリエを引き払い、冬はハワイでその他の季節は東京で暮らすようになりました。

故郷である丸亀市に1000点もの作品を寄贈し、その後、所有しているすべての作品を丸亀市に寄贈するという文書を提出、準備丸亀市猪熊弦一郎現代美術館に搬入されることになります。

90歳、東京で死去されるまで彼は常に芸術家であり、美しい壁画やそのほかの作品をこの世に残していったのです。