クラック・デ・シェバリエはシリアの北西部ホムス近郊にある城で十字軍が築いた城の中でも最も保存状態がよく美しい城として知られています。
キリスト教徒の要塞として
クラック・デ・シェバリエを築城したのはホムスの領主でした。
1031年の築城で1099年には第一回十字軍に敗れています。
しかし、この時には十字軍は城を放棄してエルサレムへ進攻しました。
1110年にガレリヤ公が攻め落として大きく改築しました。その後1142年には聖ヨハネ騎士団に譲られました。
このヨハネ騎士団が現在のクラック・デ・シェバリエの原型を作り上げました。
もともとはアラブ系の建造物だったものを聖ヨハネ騎士団がホールや礼拝堂などキリスト教徒の要塞としての体裁が整えています。
地上と地下に巨大な食糧貯蔵庫を作り5年間は籠城できるほどの要塞を作り上げたのです。
この城の周辺には、他の十字軍の要塞もあり、この地は十字軍によって治められるようになったのです。
イスラムの要塞として
十字軍が衰退し始めた1271年マムルーク朝バイバルスはクラック・デ・シェバリエに駐屯する十字軍を偽の情報を用いて開城、撤退させ城をわがものとしました。
そのためキリスト教の礼拝堂はイスラム教のモスクに改装されました。
礼拝堂以外にも、アラブ人の居城にふさわしくイスラム風の内装に大きく改装されたのです。
その後も、クラック・デ・シェバリエはイスラムの要塞として数々の戦いに活用され、永くマムルーク朝の居城とされました。
現在はシリア政府に管理されており2006年に世界遺産に登録されました。
戦いのための要塞
クラック・デ・シェバリエは彼のアラビアのロレンスが最も美しい城とたたえた通り全面白煉瓦造りで見事に統一されています。
白く輝くレンガの間からは雑草が映えて、独特の美しい外観になっており、近づく人々に明るい印象を与えています。
しかし、用途はあくまでも要塞であるため険しい崖の上に作られ、7つある守備塔の壁の厚さは10m近く、外壁の厚さは30mにも及ぶ堅牢そのものの構造です。
濠や跳ね橋なども具備し、敵が攻め込みにくい構造に作られており、見た目の美しさとは裏腹のまさに戦うための要塞でした。
欧風とイスラム風
度重なる戦いによって持ち主がヨーロッパ人とアラブ人に間でたびたび変わったために、ヨーロッパのロココ調の作りとイスラム的な作りが混在しています。
歴史的な事実がそのまま、建造物の装飾や構造に影響を与えて他に類を見ない価値を生み出しているのです。
今も戦いの中で
日本では「天空の城ラピュタ」のモデルではないかと取りざたされる美しい城。
多くの戦いを経て存在するクラック・デ・シェバリエは、今もなお戦火の中にあり砲撃を受けた報道も記憶に新しいものです。
現在、その存続が危ぶまれる危機遺産となっています。