遊郭・島原の料亭(揚屋)として利用された角屋
今は既にありませんが、京都には「島原」という巨大遊郭がありました。
江戸に「吉原」という遊郭があり、そこに「花魁」が君臨したように、京の都には島原があり「太夫」がいました。
花魁と違い、大夫は舞などの芸に優れている者でなければなることができない最高位の女性です。
そんな島原の中で料亭として営まれた角屋には、本来であれば敵同士でもある新選組隊士や攘夷志士が訪れ、密談をしていたと言われています。
角屋と言えば、芹沢鴨の話が有名ですね。
新撰組局長でありながら乱暴者でもあった芹沢鴨。
彼がこの角屋で暴れた際に刀傷ができ、それが現在もそのまま残っています。
この角屋からは、本当にいろいろな歴史が生まれたといってもいいかもしれません。
重要文化財に指定されている角屋
料亭として利用されていた角屋ですが、実は非常に繊細な建築技術を使っていることでも知られています。
天上に扇が描かれた「扇の間」は、窓の格子まで扇柄となっている非常に美しい部屋です。
また、「綱代の間」では綱代を使って天井が造られており、こちらも趣がある雰囲気に。
そして、広々とした「松の間」。
この松の間から見える庭は本当に美しく、たくさんの武士たちがここで庭の美しさをほめたたえたのだなと想像できます。
この角屋、印象的なのは「意外に天井が低い」ということ。
当時の人は身長が小さ目だったので、このくらいの天上の高さでも十分だったのでしょう。
この角屋だけでなく、京都の街を歩いていると狭い道がそのまま残っており「これがむかしの道の幅だったのだろう」と想像することができます。
帯刀はしないことがルール
また、この角屋には刀掛けが置いてあります。
なぜなら、この角屋は基本的に帯刀して入ってはいけないという決まりがあったため。
もし敵同士が化を合せたとしても、この島原では闘うことはゆるされないのです。そのため、この刀掛けに刀を置いてあがることがルールでした。
あくまで揚屋は楽しむことが目的。それ以外の無粋な真似は許さないというところに、京都の格式の高さを知ることができますね。
この角屋は現在も入ることができ、中も見学をすることができます。
現代からみても「素晴らしい」の一言に尽きるこの角谷をあなたも堪能してみてください。
新撰組が利用していたということもあってか、京都では非常に良く知られる観光スポットです。
日本建築のルーツを知る意味でも、非常に貴重な建物だといえるでしょう。